夏の朝の夜想曲

「おはよう〜天気がいいねぇ〜」

軽いノリで気安く話しかけてくる。いつも教室に一番乗りするくせに朝のホームルームの頃にはふわっといなくなっていることもある。よくわからないヤツだ。

私はいつもこいつよりずっと遅くに教室に入る。

今朝はなんだか家に居たくなかった。普段なら耐えられるはずなのに。夏の清々しい朝の空さえ私に当てつけるように深く青い。

こいつだって。

でもこいつは空のように青くない。いや。みんなには青く、美しく見えるのかもしれない。けれど私にはその青の奥に月灯を霞ませる暗い空が見える気がする。

だからいつも退屈そうに朝の教室にいるこいつの暇でも紛らわしてやろうかと一番乗りを奪ってやったんだ。

「こんな天気のいい日は、天井が邪魔だなぁ〜」

意味がわからない。猫のように全身を伸ばして、気持ちよさそうに息を吐き出したこいつはまたサボるつもりなのだ。

「川、好き？」

「は？意味わかんないんだけど。好きでも嫌いでもない。」

「じゃあ行こっか。カバンはロッカーに隠して！机にかけてあったら、どこだ〜って探されちゃうからね〜」

そういうと臆面もなく私の手首を握り、廊下を金魚が泳ぐように軽やかに進んでいく。

朝からもやがかかったままの頭には理解できない速さであれよあれよと自転車の後ろに積まれ、景色が流れていく。

あれ？風が少し気持ちいい。

「はいこれ。」

「鍵盤ハーモニカ…？」

「ショパン弾いてよ。」

「こんなダサいので弾いたことないんだけど。」

「いいからいいから。」

音域の狭い鍵盤。普段より1オクターブ低いところからノクターンを弾く。主旋律だけが不格好に河川敷に響き渡る。

訳もわからず夢中で弾いているとその音に被せてフルートが鳴りだす。

「ちょっとずるい！なんでそっちはちゃんとした楽器なの？」

「その子だって立派な楽器だよ？いいから続けて？」

渋々演奏を続ける。あ、また跳ねた。"夜想曲"をどうしてこんなに楽しそうに表現するんだ。

ああ、もう。また跳ねた。

気がつくと私はこいつの演奏に合わせて軽やかに、跳ねるように。まるで月のうさぎが夜の訪れを祝うように。歌っていた。踊っていた。鍵盤を撫でる指だけではなく、私も楽しくなっていた。

演奏が…もうすぐ終わりだ。このまま踊り続けていたい。

終わらないで…この夜を止めないで…。

二人の最後の一音がすっと溶けるように消える。

夜だと思っていたこの10分は当然朝の河川敷で、急に陽射しが眩しく感じた。

だけど…

嫌じゃない。あれ？空が綺麗。

「帰ろっか。」

爽やかそうに微笑む顔がうっとおしい。しかし私も今同じ表情をしているのに気がついて、なんだか顔が熱い。夏の陽射しのせいだ。そうに違いない。

来た道を引き返す。

「ねえ、サボらないの？」

風に負けまいと大きくなる声。

「君はサボったらマズイでしょ？送ってく。」

「アンタはサボるんかい！」

「え？…痛っ！叩かないでよ〜」

にくたらしくて叩いた背中は細くて頼りなさそうなのに、なんだか大きくて。笑いが込み上げてくる。

二つの笑い声は、世界にたった二人かと錯覚させるように朝の空に吸い込まれていった。

邑咲りら

短編『真夏の朝の夜想曲』【邑咲りら】

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